「夜と霧」新版
わたしは誰かが好きな本を紹介する読み物が好きで、普段買わない雑誌もそういう特集だとつい買ってしまう。
そして紹介されている本をちびちび読むのが趣味といえば趣味なのだけど、大勢の人のお気に入りであるらしく、20世紀を代表する名著とされる「夜と霧」は敬遠していた。
ナチスのユダヤ人迫害の被害者である心理学者が書いたもの、という紹介を読み、凄惨な迫害の様子が克明に記されていて、自分がその恐怖に囚われてしまうだろうと思ったからだ。
でも、もし耐えられなくなったら本を閉じれば良いのだからと読んでみることにした。
わたしが読んだ紙の本がない。
薄い本なのですぐ読めた。
読んで良かった。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生き続けるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
(134ページ)
愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、その愛する人間をも生きることから降ろさないだろうと思った。
というのも、わたしは今まで、児童虐待のニュースを見るにつけ、どうしてこんなことをするのだろう、こどもを愛していないのか、と不思議に思っていた。
ああいう人は普通じゃないんだよ、普通の人はそんなことしないもの、と片付けられてしまうこともある。
でも、「普通」と「普通じゃない」の線引きが曖昧で、それに虐待してしまったと言う人たちにはごく「普通」に見える人がほとんどで、どうして虐待に走ってしまうのか、個人の性質なのか、親子の相性が悪いのか、経済的な問題か、それとも環境なのか、ずっと考えていたがわからないままだった。
自分のこども(あるいは同居している血の繋がりのないこども)が言うことを聞かない、つまり自分の思う通りに他人が動かないというだけで、明らかに自分より小さく弱い存在に暴力を振るってしまうのは、責任の自覚がないのだろう。
多くの人が自分のこどもに手をあげないのは、愛するこどもに対する、親としてのして責任を自覚しているからだ。
愛していないから暴力を振るってしまうのではなく、こどもを愛してはいるが、こどもにたいする責任の自覚がないので、苛立ちにまかせてひどいことをしてしまうのだろう。
こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともでない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともでない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。
(144ページ)
単純に「監視者(ナチス側)」と「被収容者」に分けたように、人間の性質は分けられないということだったが、これは本当にそうだと思う。
たまたま「あっち側」にいる人間の全員が、「こっち側」に敵意を持っていたり「こっち側」を虐げたり「こっち側」を人間だとも思わない、とは限らない。
「まとも」と「まともじゃない」の両極端まで及ばなくても、表面上分かりやすく貼られたレッテルによって人間の本質を決めつけることはできないのだ。
性別とか、人種とか、宗教とか、職業とか。
いや、それ以前に見た目が人間でもわたしの想定する人間らしさを備えているかどうかなんてわからないな… はたしてそれが「まともじゃない」ってことなのか。
だいたい、わたしの基準は当てにならないんじゃないだろうか。フランクル先生、わたしは「まとも」の基準さえ揺らいでいます。
というようなことを、白人警官による黒人男性暴行致死事件とその後のデモや暴力行為の報道を見ながら考えた。
不正を働く権利のあるものなどいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる。
(153ページ)
忘れがちだけど、これは本当にその通りだ。
不正を働かれた者が、不正を働いた側、さらにはその不正を許した(見て見ぬふりをしたなど)側に対してならば不正を働いてよい、とする考えは誰でも陥る可能性があるのではないだろうか。報復に対して変に寛容になってしまうのはなぜだろう。
不正を働く側は「自分には不正を働くべき『正当な』理由があるのだ」という誤った認識を持ちがちだし、それを見ているほうは「そういう背景があるのならば、あの人は不正を働いても仕方がない」と見逃しがちだ。
でもやはり、不正は不正であって、どんな理由があっても不正を働く権利は主張できないし、不正を正当化することもできない。そもそも正当ではないから正当化しなくてはならないのではないか。
不正を働かれたことは、その人にとってひどいストレスだろうから、それ以前に当たり前としていたことを当たり前と思えなくなるのも理解できる。
そんな時、あなたのしていること、しようとしていることは違うんじゃないか、他に方法はあるのではないかとそばにいる人が気付かせてあげられたらどんなにいいだろう。
幸せな人生って、そういう人がいるってことだなぁと思った。
わたしなどは不正を働かれた人が、不正を働いて仕返ししようとしているのを見たら、諭すどころか焚きつけてしまいかねないので、よくよく注意しなければならないぞと自分を戒めるばかりだ。
ところで、「夜と霧」という幻想的でもあるタイトルは、夜霧のように跡形もなく消え去った人々、とかその統制命令のことを指すそうだ。
ヒトラー自身が好きだったワーグナーの作品から引用した法令らしいが、そのワーグナーもユダヤ人を語らせたら長くなりそうだし、この辺のことを知ろうと思ったらまた読みきれないほどの本が読めそうだ。